玄関のチャイムが一度だけ鳴った。妻が買い物から帰ってきたのかもしれない。両手
が買い物の袋で塞がっていて、ドアの鍵を取り出せないのだろう。いや、それならどう
やってチャイムを押したのか。それに、車の音も聞こえなかった。大谷耕治は手元に広
げていた新聞をソファの上に落とすと立ち上がり、リビングルームを横切って玄関のド
アを開けた。だれもいなかった。
通りがかりの子供の悪戯だろうか。少し離れた場所には小学校がある。大谷夫婦がこ
の一戸建てに引っ越してきた当初は、小学五、六年生のワルガキの間でそんな遊びが流
行っていた。下校時に三、四人が集まり、じゃんけんで負けた一人が見ず知らずの家の
門前に立ってチャイムを鳴らす。そのまま、家の人間が応対に出てくる直前まで、その
場に何秒間立ち続けていられるかを楽しむのだ。
ドアを開けると、くたびれて痩せ細ったランドセルをしょった数人の子供たちが、奇
声を発して一斉に走り去っていく光景を、大谷はしばしば目にしたものだ。
しかし、そんな悪戯は長続きしない。被害にあった住人の一人が、小学校に苦情を申
し入れた。翌日、校長の指導で現場に張り込んだ教師が、ワルガキの一味を「現行犯」
で取っ捕まえた。保護者にも連絡がもたらされて、ワルガキどもは学校と家庭の双方に
こってりと油を絞られた。以来三年近くがたつが、その種の悪戯はずっと影をひそめて
いた。
大谷は思った。だれかがチャイムを押してすぐに、用事を思い出したのだろう。ある
いは、訪ねるべき家を間違えたことに気がついたのかもしれない。英会話の教材を売り
歩く戸別訪問のセールスマンか。それとも、洗剤や商品券をちらつかせながら、やくざ
顔負けの口調で六か月購読をごねまくる(この手の輩は決まって、購読者の社会意識を
見下げているのがよく分かる)大手新聞社の勧誘員かも。いずれにしても用があればま
たやってくる。用がなければそのままバイバイ。気まぐれな世の中だ。いずれ、無辺の
日常に没してしまうであろう小さな出来事にいつまでもこだわっていても仕方がない。
大谷はドアを元どおりに閉めて、念のためロックを下ろした。リビングルームに向け
て踵を返そうとしたとき、家の中でガサッと音がした。新聞紙を折り畳んだような音だ
。しかし、家の中に人のいる道理がない。壁に掛けていたカレンダーのピンが自然に外
れて、本体が床に落ちたのか。ガサッ。また音がした。大谷は反射的に足を止めた。音
はリビングルームのソファの方向から聞こえてきた。新聞紙をめくる音だ。だれかがソ
ファの近くにいるみたいだ。でも、だれだ?
好奇心と不安とがないまぜとなり、大谷は宙を歩く気分でリビングルームに足を踏み
入れた。すぐ目に飛び込んできたのは、正面のソファに座って脚を組み、新聞を広げて
いる人物の姿だった。顔は、両手で広げた新聞の中央部にそっくりと隠れている。が、
下半身のいで立ちを見て大谷は思わず息を飲んだ。薄茶色のコーデュロイのズボン。全
体がグレーで、くるぶしの辺りに赤い小さなダイヤのマークの刺繍をあしらった靴下。
それらの着衣は、今、大谷が身につけているのとそっくり同じだったからだ。
大谷は、しばらくその場に棒立ちになっていた。時の流れが突然、体の周囲でかちん
、と音を立てて凍りついて止まったかのように心もとない気分だった。気がつくと、心
臓が十六ビートを刻んでいる。喉が、熱砂のごとく渇いている。こいつは何者だ。まさ
か、と考えたが、その先につながる言葉を、大谷は無理やり喉の奥に流し込んだ。そん
なことがあってたまるものか、という強い反発の気持ちがむくむくと頭をもたげてきた
。
すると、目の前のソファに座って脚を組んでいたその人物がいきなり、広げていた新
聞を顔の前から取り払った。相手の顔をまともに見た瞬間、大谷は「あっ」と小さく叫
んで後じさった。そこには、大谷そっくりの容貌をした男が座っていたからだ。服装さ
えも、鏡の中から飛び出してきたみたいにウリ二つだ。しかし、たった一つだけ異なる
ところがあった。それは、目の前に現れた大谷の姿を見ても、相手はまったく動じる素
振りを見せなかったところだ。大谷そっくりのその男は、目の前に大谷が立っているの
を認めると、ゆっくりと頷きかけ、さもうれしそうに白い歯を出して笑いかけてきたの
だ。
「おまえは……」
自分のものではないような干からびた声でいったまま、大谷は次の言葉を失った。体
が金縛りにあったように動かない。夢を見ている気分だ。夢なら、今すぐ覚めてほしい
。そう念じつつ、右手をそろりそろりと上げていった。やがて、冷たい親指の先端があ
ごに触れた。思い切って、その部分に爪を立ててつねってみた。電気ショックのような
痛さが顔面を貫いた。しかし、夢は覚めなかった。その代わり、金縛りの呪文が不意に
解けたように思えた。
大谷は、その場で回れ右をすると、脱兎のごとく駆け出した。(つづく>>)
