大谷耕治の頭の中に、ドッペルゲンガーという言葉が木霊していた。いつか、
会社の近くの喫茶店で、コーヒーを飲みながら、超常現象の特集を組んだ雑誌
をぱらぱらとめくっているときに目にした言葉だった。
その後、営業車のカーラジオを聞いていて、音楽番組の進行役の男性タレント
がこの言葉をしつこく使っていたので、いつの間にか頭の中に刻み込まれてし
まっていた。
それはドイツの言葉だった。直訳すれば「自己像幻視」という意味になる。
つまり、自分の姿を自分で見る幻覚の一種だった。
ドッペルゲンガーを体験すると、体験者のほとんどは、近いうちに死を迎え
入れることになるという。そういえば大谷の祖父が十年ほど前に、この現象
らしきものを体験したといい残して間もなく、クモ膜下出血でこの世を去っていた。
恐ろしい話である。
それにしても、まさかこの自分がその体験者になろうとは、大谷は今日の今
まで予感さえ抱くことがなかった。
十月もそろそろ半ばにさしかかっていた。日暮れが早くなってきていた。
大谷は慌てて家を飛び出してきたので、上着もひっかけていなかった。
空を仰ぐと、西日が魂のすすり泣きのような音を立てて落ちていくところだ。
上半身には、部屋の中でくつろいでいたときの長袖のワイシャツ一枚しか着ていない。
風が吹くと、背筋がぷるんと波を打って震えた。いや、震えたのは寒さのせいだけ
ではなかった。考えてみただけでも恐ろしい現実に直面したことを知ったために
思わず身の毛がよだったのである。
これからどうしよう。大谷が家の前の路上に佇んだまま頭を抱えていると、
彼方からスモールライトを点灯した白塗りの車が近づいてきた。妻が運転して
いる車であることは、一目で分かった。大谷はためらうことなく、走ってくる
車の前方に足を踏み出した。
車は、気持ちよくうたた寝をしているときにいきなり尾っぽを踏みつけられた
妊娠中の雌猫の叫びを思わせる、けたたましいタイヤのスリップ音を立てて、
大谷の目の前に急停止した。大谷はすぐ、運転席側のドアの前に回り込んだ。
窓の奥から顔を覗かせている妻は、明らかに驚愕の表情を呈していた。
「ちょっと、ここを開けてくれ」
車を停めた妻が、車内に閉じこもったままで窓を開けようともしないので、
大谷はいら立ち、刺を含んだ声を出した。窓を拳の裏側で数回たたいてから、
ドアに手をかけて開けようとしたが、ロックがかかっていた。
「ほら、開けろよ。家の中に怪しいやつがいるんだ。警察に知らせたほうが
いいかもしれない。早くしろって」
車内の妻には、大谷の声が聞こえたのかどうか分からなかった。しかし、妻は
あいまいな表情で頷くと、そのまま車をゆっくりとスタートさせた。大谷が離れ
ると、車は徐行のまま、玄関脇のカーポートに横付けになって停まった。大谷は
急いで後を追いかけた。
車からカーポートに降り立った妻は、両手に買い物してきたばかりの袋をぶら
下げていた。少し苦労しながら車のドアを閉じると、何を思ったのかいきなり
小走りになって玄関のドアへ向かった。チャイムを鳴らした。
大谷は路上から慌てて声をかけた。
「家の中に入るんじゃない。変なやつがいるんだぞ」
大谷が妻の背後に駆け寄ろうとしたとき、玄関のドアが内側から開いた。顔を現し
たのは、例の大谷そっくりの男だった。
「お帰り」と、大谷そっくりの男が、大谷そっくりの声で妻に声をかけた。
「ただいま。ねえあなた、変な人がいるの」
妻は大谷が立っている路上を振り返った。他人を見る目だった。大谷はその場に立
ち尽くした。大谷そっくりの男は、いつも大谷がやっているのとまったく同じ動作で妻
から買い物袋を受け取ると、視線を大谷の方へ移した。
「何か御用でしょうか」
大谷そっくりの男は、やはり大谷そっくりの声でいった。その声を聞くと、大谷は
背筋がぞくっとした。そのまま言葉に詰まり、自分の家の玄関の前に体を寄せ合うよう
にして立っている、大谷そっくりの男と妻の双方の顔をせわしなく見比べた。
「用がなければこれで失礼しますよ」
数秒待って、大谷そっくりの男はいうと、妻を自分の背後に隠すようにして、ドア
のノブに手を伸ばした。
「待ってくれ」
大谷はようやく、声を絞り出した。今にも消え入りそうなほど小さな声だった。
「お、お前はだれなんだ」
すると、大谷そっくりの男は、いかにもおかしそうに肩を震わせた。
「私は私ですよ」
男の右手の人差し指の先は、最初の「私」を発したときには自分の胸をさしていた
が、次の「私」のときには、五本の指を力なく開いた曖昧な形で、空中をさ迷った。大
谷が次の言葉を探していると、
「じゃ、これで失礼しますからね」
男は大谷に向かって、小馬鹿にしたようにひらひらと手を振って見せた。それから、
ドアをばたんと閉じた。
大谷は、路上に一人取り残された。五、六歩も歩けば、そこには三年近く住み慣れ
た自分の家のドアがあり、生活がある筈だった。しかし、歩き出せなかった。そこは自
分の家には違いなかったが、もはや帰るべき場所ではなくなったような気がしたからだ。
大谷はすっかり意気消沈した。 (<<もどる つづく>>)
