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そっくり男 第3回

 遠くから犬の遠吠えが聞こえた。夕暮れが迫って、野良犬が腹を空かせてうろつき回り始めたのかも知れない。

 大谷も、遠吠えをしたい気分だった。勇気を出して家の中に舞い戻り、例のそっくり男をたたき出してやろうか、とも考えた。が、先刻、買い物から帰ってきて、車の窓越しに大谷と顔を合わせたときに見せた妻の表情を思い出すと、たちまち気が萎えた。妻は、目の前に現れた大谷を端から夫とは見なさないで、偽物の大谷が待っている家の中へ逃げ込んだのである。

 そうだ、とりあえず小金丸の家を訪ねて助けを求めよう、と大谷は思い立った。小金丸正夫は、大谷の職場の二年後輩だった。たまたま、大谷の家から歩いて十分くらいの場所にある、駅の近くのマンションに一人で住んでいた。気ままな独身貴族なので、土曜日のこんな刻限には家にいないかもしれない。しかし、行ってみなければ分からなかった。

 カーポートに停まっている車のキーは家の中にあった。大谷は仕方なく、歩くことにした。足を踏み出すごとに、風はますます冷たくなり、青ざめた空からは黄昏の残光がたちまち失われていった。こんな夕刻、家から駅の方向へ歩いた経験はあまりなかった。
ときどき、ヘッドライトを灯した数台の車がスピードを上げて行き交い、通行人は皆、幽霊のような足取りをしていた。駅前の商店街にたどり着く直前まで、大谷は黄泉の国に向かって歩く亡者のように、心細い気持ちが胸いっぱいに満ちてきた。

 小金丸の家は、六階建てマンションの六階の六〇六号室だった。いなかったらどうしよう、と一抹の不安を抱きながらチャイムを鳴らすと、ドアの内側ですぐに「はい」という聞き慣れた声がした。続いてロックを外す音が聞こえた。大谷は、ほっと胸を撫で下ろした。目の前のドアが静かに開いて、隙間から小金丸が顔を覗かせた。

「やあ。悪いな、こんな時間に」

 大谷が恐縮したいい回しの中にも、職場の先輩としての威厳を込めたあいさつの言葉を投げると、小金丸は眼鏡の奥のビー玉のような丸い目を、一層丸くしていい返した。

「ええと、はて。どちら様でしたっけ」

「何いってやがる。おれだよ、小金丸」

「ちょっと待って下さい。いきなりおれといわれても」

 小金丸は、丸く見開いた両眼にうっすらと警戒の光を灯しながら、細い首を傾げて頭を掻いた。わざととぼけているといった感じではなかった。すると、本当に分からないのだろうか。大谷は、背筋を氷のかけらで撫でられた気持ちになった。

「なあ、小金丸。このおれが本当に分からないのかよ」

 相手の両肩をむんずと捕まえて、力任せに揺さぶってやりたい感情をようやくのところで抑えて、大谷は言葉を続けた。

「そりゃ問題だぞ、小金丸。おれは大谷耕治だよ。職場では、おまえの二年先輩で、一年くらい前までは、営業部の仕事を手取り足取り教えてやったじゃないか」

「大谷さんだって?」

 小金丸は声を立てて笑い出した。あまりにもおかしそうに笑い続けるので、大谷もつられて笑ってしまった。二人でひとしきり笑い終えてから、小金丸がいった。

「あなたは大谷さんじゃないよ。冗談じゃない。少しも似ていない。こんな時間にいきなりやってきて、人を馬鹿にするのもいい加減にしろ。ほかに用がなければ、さあ、警察に通報される前に帰りなさい」

 大谷の目の前で、六〇六号室の鉄製のドアが大きな音を立てて閉まった。内側でロックを掛ける音が、甲高く響き渡った。大谷は悔しさが込み上げてきた。歯軋りをして、握り拳を固めた。が、振り下ろす相手がいなかった。体中から力が抜けていく気分だった。

 しかし、小金丸はどうしてこのおれが分からなかったのだろう。大谷は、下りのエレベーターの中で考えた。先刻、家の前の路上では、車を運転して買い物から帰ってきた妻の美恵にも、他人を見る目で見られたことを思い出した。あいつらに何があったんだ? それとも、変わってしまったのはこのおれ自身なのか。もう一人のおれが、本当のおれを乗っ取りやがった。とすると、今のこのおれは一体どこのだれなんだ?

 エレベーターは軽い震動をともなって、マンション一階の玄関ホールに到着した。扉が開いて、大谷がホールに足を踏み出したときだった。前方でか細い声がした。

「大谷さん」

 大谷は、声のした方向に顔を上げた。

 薄暗い玄関ホールの片隅に、男が一人、青白い顔をして立っていた。今、六階の
部屋で別れたばかりの小金丸だった。大谷は飛び上がった。(<<もどる  つづく>>

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